2002年4月7日




限りなき祝福  

ヨハネによる福音書 20章19〜31節  

 今日は復活節第二主日です。聖書はイエス復活の翌日の物語で、昔から復活祭の次の主日礼拝でとりあげるところです。弟子たちは、ローマの官憲と結託してイエスを十字架刑に処した人々が自分たちにも弾圧と迫害を加えることを恐れて、家に閉じこもっています。…そこへイエスが来られました。

 イエスは真ん中に立って弟子たちを祝福され、『シャローム』と言われます。そして手とわき腹、つまり十字架刑によって傷ついた傷跡を見せられました。私は確かに、十字架で死んだイエスであるということを弟子たちに納得させようとされたのです。弟子たちは主イエスを見て喜びました。このとき、トマスは不在で、復活のイエスにお会いしませんでした。それで「わたしたちは主を見た」という弟子たちの言葉に反発します。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れて見なければ、また、この手をそのわき腹に入れて見なければ、わたしは決して信じない」と断言して「不信のトマス」という名を後世に残すことになってしまいましたが、実はトマスの言葉には非常に重要な意味があるのです。

 復活した人は十字架で死んだイエスその人である、死んだイエス自身が本当に復活したという目撃証人の証言は、古代教会にとって決定的なものだったのです。イエスは再び顕現し、トマスに対して『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。』と言われました。生けるキリストとの出会いによる啓示…これがキリスト教でした。使徒たちまでは、生けるキリストとの出会いがありました。

 復活のイエス・キリストが昇天されたのち、福音書記者ヨハネがこの福音書を書いた時は、すでに「見ること」の出来ない時代、見ないで聞いて信じる時代、イエスを見た人の話を聞いて信じるときになっています。

 霊を受けて聖霊に聞く…これが現在に到る教会の時です。私たちはイエスの言われる「幸いな人」に当たるのです。こうして世々のキリスト者に限りない祝福が約束されました。主の十字架と復活による祝福を感謝したいと思います。